日本100名城の一つ、
豊臣の家臣が築城した岡山城
別名「烏城(うじょう」と呼ばれる、漆黒の城
岡山城は、慶長2年(1597)、豊臣五大老の一人・宇喜多秀家が築城しました。
秀吉の指導により築城された岡山城は、8年の歳月をかけて建造され、慶長2年(1597年)に完成しました。
西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用しています。
黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう」)とも呼ばれ、また金の鯱を挙げていたと
伝えられるため「金烏城」の名もある名城です。
秀家はこの城を戦のための施設だけではなく、統治下の城下町を整備するために商人や職人を集めて、
話合いなどが行われました。関ケ原合戦で敗北した秀家に代わり、城主となった小早川秀秋は、
西側の外堀の敷地を拡張し、新たに外堀を設け、その外に寺町を配置しました。その工事は、
20日間の突貫工事で行われたため、「二十日掘」を呼ばれています。
秀秋が亡くなったあとは、幕藩体制のもと、岡山城は岡山藩の城府となり、藩主を池田家として明治維新にいたりました。
17世紀末には、藩政が安定期に入り、旭川を隔てて北側に趣を楽しむ庭として「後楽園」が作られました。
【所在地】〒700-0823 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1
見どころ
【天守閣】
天守閣は石垣からの高さが20.45メートルあり、2階建ての建物を3つ重ねており、三重六階の構造をしています。
内部には城主が生活をしていた「城主の間」があり、全国的にも珍しい天守閣でした。
現在の天守閣は昭和41年に復元されたものです。
【城門】
岡山城には数多くの櫓や城門がありましたが、明治時代に石山門を除いて取り払われており、
その石山門も空襲で焼失しました。
現在見ることができる不明門、廊下門は天守閣と同時に復元されたものです。
【石垣】
岡山城の石垣は、豊臣時代~江戸時代まで増改築されて使用されていたため、「野面積(のづらづみ)」、「打込萩(りきこみはぎ)」など、各時代の石積みを観察することができます。
中でも野面積による高石垣は全国的にも珍しい貴重な文化遺産です。