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ぜひ訪れてほしい岡山県の名城

岡山県は、数々の歴史的な戦いに関わりがあります。663年、唐・新羅の連合軍に大敗した日本は、唐・新羅の侵攻に備え国土防衛のための施設として、鬼ノ城を築城しました。 戦国時代には、 秀吉の指導により豊臣五大老の一人・宇喜多秀家が岡山城を築城し、統治の基盤としました。また毛利氏・三村氏・宇喜多氏の激しい攻防に、高松城・撫川城が戦場となりました。 このように、激動の時代に深くかかわるお城が、岡山県にはいくつもあります。攻防の要となったお城には、その時代ごとの最新の建築技術を用いられ、歴史的な価値があります。 中には、戦国時代~明治維新まで長い期間使用されたお城もあり、そのお城だけで様々な時代の技法を見ることができます。一方で、17世紀末に、岡山城では、旭川を隔てて北側に趣を楽しむ庭として「後楽園」が作られ、文化的な歴史も感じることができます。
こちらのサイトでは、岡山県でも名城と言われるお城をご紹介しています。 岡山県に観光の際は、ぜひお城に訪れ、先人たちの知恵・想像力に触れてみませんか?

岡山県の名城

岡山県の名城「岡山城」

岡山城は、慶長2年(1597)、豊臣五大老の一人・宇喜多秀家が築城しました。黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう」)とも呼ばれ、 また金の鯱を挙げていたと 伝えられるため「金烏城」の名もあり、日本100名城の一つに選ばれています。 旭川を城の東背後を流れるように設計し、天然の外堀として活用しています。石垣は、豊臣時代~江戸時代まで増改築されて使用されていたため、「野面積(のづらづみ)」、「打込萩(りきこみはぎ)」など、各時代の石積みを観察することができます。天守閣は石垣からの高さが20.45メートルあり、2階建ての建物を3つ重ねており、三重六階の構造をしています。 内部には城主が生活をしていた「城主の間」があり、当時は全国的にも珍しい天守閣でした。 17世紀末には、旭川を隔てて北側に趣を楽しむ庭として「後楽園」が作られ、現在でも多くの観光客が訪れています。このように、岡山城は、政治的だけでなく文化的な場面で利用されており、見どころのあるお城として多くの方に愛されています。
【所在地】〒700-0823 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1
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岡山城後楽園

古代山城、遠望絶景の「鬼ノ城」

鬼ノ城は、岡山県総社市の鬼城山に築かれた古代山城です。鬼ノ山はすり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻ですが頂部は平坦です。下には総社平野と足守川中流域 平野を望み、瀬戸内からは遠く四国の山並みが望見される遠望絶景の地に立地しています。663年、朝鮮半島 白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗しました。そのため唐・新羅の日本侵攻を恐れた朝廷は、早急に北九州から瀬戸内沿岸、畿内にいたる国土防衛の施設を築く必要があり、その一つとして鬼ノ城を築城しました。城壁・城門4か所・角楼・水門6か所などで構成されており、随所で当時の建築技術を見ることができます。
【所在地】〒719-1105 岡山県総社市黒尾
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羽柴秀吉の水攻めで知られる「備中高松城」

沼地に囲まれ難攻不落の高松城。松山城主・三村氏の命により、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城です。 沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された土城であり、城の周辺には 東沼、沼田などの地名に象徴されるよう、沼沢が天然の外堀をなしていました。 かつては深い堀と沼沢地に囲まれた毛利氏の堅固な要塞でしたが、織田信長の命を受けた豊臣秀吉の水攻めに遭い、落城しました。
【所在地】 〒701-1335 岡山県岡山市北区高松558−2
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備中高松城

典型的な沼池、「撫川(なつかわ)城」

撫川城は、1559年、備中成羽城主三村家親が備前の宇喜多直家の侵攻に備えて築城したといわれています。 周囲には幅15メートルの堀を巡らせ、北西端からは足守川の水を引き入れて、 侵入が困難な設計にしています。南に大手門を備えており、平城としては県下屈指の規模で壮観です。当時の城主、井上有景と秀吉軍との間で激戦が交わされました。その後、撫川城は宇喜多の支配下になり廃城となりましたが、江戸時代に戸川氏の領するところとなりました。現在、城の復元はされていませんが、撫川城址公園内にて入り口に現存する門は、明治時代に撫川知行所総門を移築したものと伝えられています。
【所在地】「撫川城址公園内」 〒701-0164 岡山県岡山市北区撫川460
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